シリア難民が抱える心の傷、チャットボットで救えるか?

©Anthony Gale(https://www.flickr.com/photos/53849189@N03/)

シリア内戦の戦禍を逃れるため、2014年からレバノンの首都ベイルートに住んでいる27歳のラカン・ゲバルという青年。

ゲバルは内戦によって家族を何人も失ったストレスで、重度の神経症に悩まされています。現在は、親を失ったシリア難民の子供たちが通う学校の教師として働いている彼。その学校の子供たちの多くも、ゲバルと同じ症状で苦しんでいるようです。

壮絶な体験によって出来てしまった心の傷をいやすため、ゲバルはメール経由で心理カウンセラーにかかっています。

カウンセラーによるアドバイスは、「今という瞬間にひたすら集中すること」。些細なことでも良いから、目の前の事に打ち込むことで、不安や心配を忘れることができるはず、とそのカウンセラーは言います。

ゲバルにとってこういったアドバイスは、時々腑に落ちないことがありつつも、概ね心の支えになっているようです。シリアから逃れてきた周囲の生徒たちにも、カウンセラーからのアドバイスを共有しているといいます。

チャットボットによる心理カウンセリング

ゲバルを担当したカウンセラーの名前はKarim(カリム)。実はカリムは人間ではなく、サイコセラピー専門のチャットボット。開発元は、2014年にシリコンバレーで創業したX2AIというスタートアップです。

X2AIは、誰もが質の高い心理カウンセリングを利用できるようにすることを理念として、心理療法分野のチャットボット開発に取り組んでいます。

共同創業者の一人、マイケル・ロウズ氏は、過去に慢性的な健康障害を患ったことで、カウンセリングに通った経験を持つ人物。数ヶ月間通った末に、ロウズ氏はあることに気づいたといいます。

カウンセラーとロウズ氏の間で交わされる会話の多くは、定型的なもの。つまりいくつかのテンプレに沿ってカウンセリングが進められていたのです。

カウンセリングがある型に沿っているということは、機械によって自動化できる余地がある。こう考えたロウズ氏は、感情認識アルゴリズムを開発中だったユージン・バン氏と共同で、X2AIを立ち上げたといいます。

X2AIの共同創業者、マイケル・ロウズ氏
X2AIの共同創業者、マイケル・ロウズ氏

人ができない難民のケア、ボットで解決

元々アメリカでのサイコセラピー普及を視野に立ち上がったX2AIですが、需要はアメリカ国内にとどまりませんでした。

同社が創業した2014年は、ちょうどシリア内戦が深刻化していた時期。シリア難民たちの心のケアの必要性が叫ばれていました。

世界保健機関(WHO)と国際医療部隊(IMC)が共同出資した機関の調査によると、ヨルダンにあるザータリ難民キャンプに滞在するシリア難民の半数が、「自身の未来に絶望を感じている」と回答。

また過度の神経症や睡眠障害、号泣といった問題行動を一つ以上抱えている人の割合は、ヨルダン国内に避難するシリア難民の4分の3に上るといいます。

こうした精神疾患に苦しむシリア難民が多い一方で、適切なメンタルヘルスケアを受けることができた人の割合は、ザータリ難民キャンプでは13%にとどまります。

まさにシリア難民の心のケアが不可欠な状態です。

しかしそのためにはアラビア語が堪能で、かつ紛争地帯で働くことができるカウンセラーを数千人規模で確保する必要があるものの、そのようなことはほぼ不可能です。

そこでこの課題解決に向け、X2AIによるチャットボット「カリム」に期待が集まっています。AIカウンセラーであれば、ネックとなっていた現地での生活や安全の確保、給料の支払いなどを心配する必要がありません。しかもテキストのやり取りをするモバイル端末さえあれば、昼夜問わず膨大な数の患者に対応できます。

X2AIによるチャットボットの利用イメージ
X2AIによるチャットボットの利用イメージ

 

導入に向けた課題、信頼の獲得

しかし自身の生活や命が脅かされている難民たちのカウンセリングは、非常にデリケートな作業。乗り越えなくてはいけない課題もあります。

まずは彼らの信頼を獲得すること。チャットボットという未知のテクノロジーに対して心を開いてもらい、胸の内を語ってもらう必要があります。

2016年3月、シリコンバレーを拠点とする教育機関のシンギュラリティ大学らが、ベイルート周辺を訪問。現地の難民たちを対象にカリムの有効性をテストしました。

被験者は約60人のシリア難民たち。男性と中心とした幅広い年代を揃えました。まず彼らの多くは、テキストを通じたカウンセリングに乗り気ではなかったといいます。やり取りが政府やテロリストたちに監視されている可能性を恐れたからです。

またチャットボットという新しいテクノロジーを理解してもらうことも難しかったといいます。多くのシリア難民は、自分がやり取りしている相手が人間ではなく機械だということを信じられなかったそう。

さらに思わぬ落とし穴もありました。

X2AI創業者のロウズ氏がレバノンを訪問した時のこと。難民たちの中で、同社のチャットボットがあまり受け入れられていないことにロウズ氏は気づきました。原因を探るべく、現地の人たちへの聞き取り調査を進めていく中で、問題がチャットボットの名前にあることが分かったといいます。

当時のチャットボットの名前は、カリムではなく「エイズィズ」(Aziz)。アラビア語で「親愛なる」「最愛の」といった意味の言葉です。

実はこの単語の発音がイスラム国を表す「アイシス」(ISIS)と似ているため、聞き間違いでイスラム国のことだと勘違いされていたというのです。ロウズ氏は、チャットボットの名称をすぐさま現在のカリムに変更しました。

ボットによる感情の理解は可能か?

現地の人による信頼を獲得した上で、質の高いカウンセリングを提供することも当然ながら必須となります。

人間のセラピストであれば、患者の発言内容だけでなく、ボディランゲージや声のトーンなどから胸の内を探っていきます。

カリムもチャットボットとはいえ、実践のカウンセリングに投入するからには、同等のことができる必要があるでしょう。

X2AIの共同創業者バン氏によると、同社のボットは患者が打ったテキストのフレーズや言葉遣い、タイピング速度、文章の長さ、文体(能動態か受容態か)などの要素から感情を把握できるといいます。

そのアルゴリズムの詳細は非公開としているものの、人力のコーディングと機械学習によって最適化を進めているそうです。

さらにチャットボットの例に漏れず、場合によっては人間も介入します。

患者が自身を傷つけたり、他人に危害を加えそうだという明確なサインを検知した場合は、人間のサイコセラピストがボットに取って代わるといいます。

しかし人間による介入のタイミングをテキストから判断することは、簡単ではありません。文章の文脈を正しく理解する必要があるからです。

たとえば患者が「傷が出来てしまった」と発言したとして、それが紙でうっかり指を切ってしまったということであれば問題はありませんし、「もううんざりだ」というセリフも、ケーキを食べ過ぎたという文脈での発言であれば、流すことができます。

ただ上記のセリフは、文脈によっては人の生死にかかわる事態を指すことになる可能性もあるのです。

そのためX2AIによるボットは、患者の性格やそれまでのやり取りの内容といった幅広い文脈も考慮した上で、目の前のテキストを理解できるよう設計されているといいます。

そもそもチャットボットの活用は有効か?

患者の心の傷を癒すために、綿密に設計されているX2AIによるチャットボット。

しかしチャットボットによる心理カウンセリングという領域は、まだまだ新しい分野なだけに、根本的な懸念もつきまといます。

つまりX2AIに限らず、そもそもチャットボットはカウンセリング領域で効果を発揮することができるのか?という疑問です。

スタンフォード大学で精神医学教授を務めるデビッド・スピーゲル氏は、一定の効果は期待できるとの考えを示しています。

ボットであれば、患者とのやり取りの全てを記憶するだけでなく、膨大な評価基準に沿って診断を下すことができます。生身の人間にとっては難しい作業です。

ただスピーゲル氏は、ボットによる決定的な治癒は難しいとみています。そう考える要因の一つが、ボットと人間による信頼関係の構築です。

カウンセリングでは、患者がカウンセラーを信頼して自身をさらけ出す「転移」と呼ばれる現象があります。患者の精神状態の回復に向けて必須のステップです。

果たして機械であるボットがこの「転移」を起こせるかどうかについて、スピーゲル氏は懐疑的なようです。

心理カウンセリングでの活用を巡った模索が続くチャットボット。現在はレバノンの厚生省や国連も、カリムを使ったパイロットプログラムの実施に興味を示しており、今後さらに一般的になることも予想されます。

いずれにしても、心理カウンセリングの現場におけるチャットボットの使い方が明確になるのは、もう少し先の話になりそうです。

※参照情報

THE CHATBOT WILL SEE YOU NOW

X2AI

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